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鈴川駅は、今の吉原駅ですね。
東海道線、国府津〜熱海〜沼津間は丹那トンネル建設工事の為、国府津〜御殿場〜沼津間でしたね。
国府津は確かÇ53型補機連結のために今でいう運転停車だと思います、大垣もそうです。だから乗客の乗り降りはできなかったのではないか?
他のところでも書かせていただきましたが、この列車はドアが手動で、駅にとまると乗客がドアをあけて乗り降りできるため、運転停車ではありませんでした。
それは勝手に降りるだけで通常は乗り降りはできません。だから乗り降りはしないほうがいいんです。時刻表にも停車液とはなっていません。
もう一つ言わせてもらえば57年11月ダイヤ改正までは旧型客車の急行が走ってましたが、夜行では単線区間で行き違いの運転停車がありました。旧型客車はドアは手動式でしたが、乗り降りはできませんでした。それと同じことです。特別急行券も国府津駅や大垣駅では発売されていません!もう一度調べてみてください。
特急「燕」🗼東京 → 横浜 → 国府津 → 🐔名古屋🏯→ 🦪大垣 → 京都 → 大阪 → 🎅三ノ宮🛩️→ ⚡️神戸 🍀
名古屋から大垣まで7駅、燕で38分、乗り換えの普通が45分。現在は9駅、特別快速で31分、普通電車が38分。
国府津から名古屋までノンストップとは、さすが超特急。
そして、2024年現在の時刻表で超特急燕の9:00発に近い9:06発(休日8:54発)の普通熱海行きからスタートし、在来線普通列車と新快速をひたすら乗り継ぐと大阪17:42着とわずか22分遅いだけで着いてしまいます。電車ってすごい。
何だかんだ言っても東海道本線ですからね。よっぽど急ぎじゃなきゃ普通乗り継ぎでも思ったよりかは案外早く行けちゃうんです。しかも、3月の改正から、修業に近かった静岡地区(熱海~浜松)のロングシートがクロスシートにバージョンアップしたので疲れも少なくなりました
スピードアップのためにこの当時していたことは、スキルというより芸事ですね😊
国府津、大垣はおそらく機関車付け替えのための停車で、それを除けば、今ののぞみ並みの停車駅で驚きです。なお、神崎駅は今の尼崎駅なのでしょうね。
新幹線並みの停車駅に驚きです。川崎駅ってなかったのですか?
川崎駅はありましたが京浜東北線が停まるだけでした。戦前は横須賀線すら停車しませんでした。
@@TSUYOS185 さん。そうだったのですね。今は政令指定都市なので意外でした。初歩的な質問になりますが、現在は新川崎・西大井経由の横須賀線もその頃は東海道を通っていたのですか?
@@taic9705 1980年のSM分離までは横須賀線も横浜~品川間は東海道線のルートを走っていて、川崎駅には横須賀線電車は停車していたはずです。ただ、その横須賀線も1960年から停車するようになったらしく(ウイキペディアによると)、その前は京浜東北線のみの停車だったそうです。かなり驚きの事実です。ちなみに京浜東北線は1928年からあったので、この時刻表(1930年)時点では東海道線には川崎駅がなかった(ホームはあったけど)という状態だったのでしょう。
@@kataakeo7730 さん。ホームはあったけど停まらなかったのですね。京浜東北のみ川崎停車に横須賀線が東海道と同じ線路、今だと考えられない事だらけですね
当時は横浜-大船間も東海道線と横須賀線が同じ線路を走っていました。途中の保土ヶ谷と戸塚(東戸塚は未開業)は、横須賀線の電車のみ停車し、東海道線の列車は通過していました。
水運車を連結してまででも停車時間を減らしていたのに、結局停車時間を増やしてでも輸送力が必要な状況になるなんて。
いつもありがとうございます。既に電化されていても東京駅からSLが牽引、さらには一刻一秒でも短縮するために並々ならぬ苦労をされていたのですね。この他には1等の展望車を最後尾にするために終着駅周辺では編成単位での方向転換が行われていました。東京駅では到着後に進行方向と反対側に機関車を連結、大崎と蛇窪で方向転換して品川の客車区に納めていました。神戸駅終着後はどうしていたのか分かりませんが、、
どこかしら駅の改称や新設があるけど、浜松〜豊橋間は今と全く同じ駅数、駅名というのがちょっとびっくり。
大垣〜米原間も今と同じです🤗垂井駅はあったのですね
実は大船~国府津間も今と全く同じなのです
今日は超特急燕ですね!所要時間短縮の為に並々ならぬ工夫がなされていたんですね!。でも静岡通過で、国府津・大垣停車と言うのが面白い処ですね。
国府津と大垣は、3:35にあります補機を連結するために停車していました。当時は急勾配で補機を連結する必要があるために停車していた駅がほかにもありました。
@@hc-ir2dr ただ、国府津と大垣の停車は時刻表に掲載していたので、単なる運転停車ではなく、客扱いしていたのでしょうね。
@@kataakeo7730 様はい、国府津と大垣も客扱いをする停車でした。この列車の車両のドアは手動で、駅に停まると乗客がドアを開けて乗降できるため、客扱いをする停車になっていました。手動ドアの列車では運転停車はありませんでした。
@@hc-ir2dr であれば、実際には補器連結のために停車していた駅であれば、時刻表に掲載されていなくても乗降できたということですか?
燕の東京駅発車時は駅長が出発指示を出していたそうです。その名残で東海道新幹線でも9時丁度発のひかり号は東京駅長自ら出発指示を出していました。今でも9時丁度発ののぞみ号はJR東海の東京駅長が出発指示を出しているのでしょうか?
駅名を見ていて、先代三島駅ってのがあったのを初めて知りました。
運賃が気になる、1等が高いのは想像つくが3等も相当だったのでは?
この当時は3等で8円6銭(うち特急料金2円)、2等車はその2倍、1等車は3等車の3倍でした。米一升(1.5キロ)が32銭だったそうですので、その25倍。現在この重量のお米は大体700円くらい(変動はありますが)ということを考えると17500円というところでしょうか。1等では5万円を超えます。JALのファーストクラス以上。この時代は高級車両はお金を払ってもおいそれとは乗れない独特の雰囲気があったそうです。
@@TSUYOS185 戦前みたいな大昔でなくても、昭和40₋50年頃までの特急列車は文字通り「特別急行」で、仕事上の用事のある人、今で言う「セレブ」やお金の有る人が乗るものというイメージでした。父親の出張経費なんかも急行利用が基本で、遠方行きや急用以外は特急利用は認められなかったように記憶しています。
特急「燕(つばめ)」 東京 → 横浜 → 国府津 →名古屋 → 大垣 → 京都 ょ大阪 → 三ノ宮 → 神戸 、
今日の東京新大阪間の新幹線のぞみのご先祖様ですね😊
国府津(今なら代わりに小田原)、大垣に停まるのでひかり号の先祖かもしれませんね
補機連結がある国府津と大垣を除いたら、今の「のぞみ」とほぼ同じ停車駅になりますね。「燕」が完全に特別扱いされていたことがよく分かります。走行中に乗務員の交代をしていたようですが、方法がかなりヤバいですね。犠牲者が出なかったならいいんですが、あまりにも危険過ぎますね。
かなり無理強いにしているようなダイヤですが定時到着はどのくらいできていたのでしょうか
当時はATSが整備されていなかったことから少しくらいの遅れならギリギリのスピードで、さらには普通や貨物列車を待たせてまで走っていたのでしょう。政財界の名士や高級軍人を乗せている以上、鉄道省としても威信をかけていたものと思います。
大垣乗り換えで美濃赤坂線の市橋行がレア
東海道本線の中間駅である静岡駅の、各時代の時刻表を見てみたいです。
1930年代から三ノ宮と神戸は主要特急列車の停車駅だったんだな。今の特急は三ノ宮が停車駅で神戸は一部が停車だが…
下りの国府津と大垣は30秒の停車で後補機を連結していましたから運転停車だと思います😳御殿場と関ケ原通過中に走行しながら後補機を開放するという荒技を使っていましたね😱あと横浜〜名古屋間がノンストップだったので、安倍川鉄橋を通過中に乗務員の交代もしていましたね😱
時速80~90キロで走っているところで手すりに掴まりながら運転室に向かうのはかなりの危険を伴う作業だったものと思います。まさにジヤッキーチェンあたりのアクション映画の世界。今なら完全にアウトですね。
走行中の補機開放ですが、広島の瀬野八では長い間行われていました。今は西条で停車して切り離しになりましたが。
@channelsada3849さま近鉄の場合中川の短絡線の改良を行い、余裕の出来た時間で津駅に特急を停車させたことにより運行中の乗務員交代を止めました。ひのとりは津駅で乗務員の交代を行っています。新幹線ののぞみ号は浜名湖のあたりで運転士と車掌が交代しますが、つばめ号の時代とは違い全線立体交差、保安設備の充実で今まで事故を起こしていないのが技術の進化の賜物であると思います。
@channelsada3849 正確には中川短絡線通過中ですね。
@channelsada3849 運輸省から指導が入りましたからね😰
上りは米原と沼津に停車だったのですかね?米原の方は片勾配だったら停車してないのかな?
米原は通過、沼津は停車でした。上りの補機連結は沼津-御殿場のみで、関ヶ原では連結されていませんでした。
高速で走行中に機関士と助士交代、僅か30秒で後補機連結に走行したまで解放…数々の伝説を残しているが、戦前は相当な腕の立つ職人気質のような鉄道員がゴロゴロいたんでしょうね。これらの離れ業…現在なら国交省がOK出さないだろう。
30秒で連結発車なんて京急運転主任さんもびっくりだな。
@@takana4381 連結器ガチャンとやるだけで配管繋がないので
国府津と大垣は補機連結のための運転停車。なお、下りは昼飯時に差し掛かり特に三等客がメシにありつけず(食堂車はあったが洋食堂車で庶民には馴染みがなかった)いわゆる「飢餓状態」になってしまい、東京発車後車掌やボーイが特に三等客に弁当の注文を聞き、横浜で駅員に渡して電報で注文を連絡して、国府津の30秒停車の間に積み込み客に渡すという離れ技をやってました。静岡停車になったのは、当時静岡に住んでいた日本最後の元老西園寺公望公に政府高官や閣僚がお伺いに向かうのに適当な列車がない(実は一等車連結の富士があるが行きは時間が遅い帰りは早すぎる)のでなんとかしてくれと要請を受け、じゃあ静岡の停車と引き換えに水運車の連結を中止する(更に二等車三等車の増結)という結果になりました。なお昭和5年運転開始時にじゃあ東京名古屋間もC53に引かせたらええんちゃうのってみんな思ってましたが、実は東京機関区にC53の配置がないのと御召列車にも使われるC51の信頼性から東名間C51名神間C53の牽引になりました。水運車はそのまま走らせたら混合列車ミキストになってしまうため「炭水車の一部」という扱いにしてナンバープレートつけて機関車にしていました。ただし機関車と炭水車のナンバーが必ずしも一致していたとは限らないそうです。
丹那トンネル開通後に機関車付け替え駅になった沼津…そこまでは「ぬまづくわず」…なんて駄洒落もあったらしい…
@@ヒストレインさま沼津駅の弁当が相当売れたのがこの時代のようです。今も沼津駅にその会社の売店はありますが、三島駅の新幹線ホームの方がメインになりました。
特急「燕」 東京 → 横浜 → 国府津 → 名古屋 → 大垣 → 京都 → 大阪 → 三ノ宮 → 神戸 😮
静岡県内をノンストップで運転するのに大垣に停車するのは興味があります。
補助機関車を付ける為です。
上りは沼津に停車していました。大垣と同様に、補助機関車を連結するためです。
1930(S5)年11月14日、この列車に乗ろうとした濱口雄幸首相が、東京駅プラットホームで銃撃される…
東京駅の通路にそのレリーフがありますね。最近ではトランプ大統領候補、そして我が国では安倍元首相の銃撃事件もありましたし、いつの時代も要人警護は大変なものと思います。痛ましいことは繰り返してほしくないですね。
あの世から宮脇のじい様が降臨しそう。
一日駅長してもらったのについ飛び乗ってしまった内田百閒先生も
横浜〜名古屋間を御殿場回りでノンストップ運転は凄いですね。大垣停車は関ケ原にかけて25‰の上り勾配があり、補機を連結する為の営業停車でしょうか。今なら、運転停車でしょうけど(昔は客車は手動で客用扉が開閉出来るから停車扱いしたと、何かの雑誌に書いてありました。)西小坂井、三河大塚、共和、笠寺の駅名が無いです。
乗客がドアを開けられることから運転停車に出来ませんでしたね。この時代の下りの急行は山北に停車して補機を繋いでいました。戦後ですが、長崎本線の肥前大浦に上りだけ停車する特急もありました。急行や準急に至ってはダイヤ改正の度に交換駅の変更に伴う停車駅変更もあったほどでした。上大井、相模金子、東山北、足柄もまだ無かったのですね。今の御殿場線が長距離輸送に全振りしていたことが見て取れます。
駿河駅は現在の駿河小山駅です。三島駅は現在の三島駅ではなく、現在の下土狩駅です。丹那トンネル開通時に現在の三島駅が開業しましたが、その直前に改称されました。
JR九州が鹿児島特急として「つばめ」を使用したいと、JR各社にその意向を問うたという、いわくつきの愛称。私は、つばめとあさかぜ、富士は廃止してはならないと思います
JR九州がかつての名門特急の意匠を受け継ぐからと各社に頼み込んでお願いしたもので、JR九州で商標登録されています。九州新幹線においては今のみずほ号に相当するものをつばめとして欲しかったですね。(JR西日本にも関係しますが)
「いわくつき」って、表現はおかしくないですか?ネガティブな言葉ですよ。永久欠番的な名称と言うべきでは?
@@user-52-mickey 適当な言葉が思いつかなかっただけです
@@user-52-mickey適当な言葉が思いつかなかっただけです
@@TSUYOS185商標登録されてるんですね。九州住まいながら知らなかった。九州もつばめ号ゆかりの地伝統愛称が受け継がれるのは嬉しいことです
鈴川駅は、今の吉原駅ですね。
東海道線、国府津〜熱海〜沼津間は丹那トンネル建設工事の為、国府津〜御殿場〜沼津間でしたね。
国府津は確かÇ53型補機連結のために今でいう運転停車だと思います、大垣もそうです。だから乗客の乗り降りはできなかったのではないか?
他のところでも書かせていただきましたが、この列車はドアが手動で、駅にとまると乗客がドアをあけて乗り降りできるため、運転停車ではありませんでした。
それは勝手に降りるだけで通常は乗り降りはできません。だから乗り降りはしないほうがいいんです。時刻表にも停車液とはなっていません。
もう一つ言わせてもらえば57年11月ダイヤ改正までは旧型客車の急行が走ってましたが、夜行では単線区間で行き違いの運転停車がありました。旧型客車はドアは手動式でしたが、乗り降りはできませんでした。それと同じことです。特別急行券も国府津駅や大垣駅では発売されていません!もう一度調べてみてください。
特急「燕」🗼東京 → 横浜 → 国府津 → 🐔名古屋🏯→ 🦪大垣 → 京都 → 大阪 → 🎅三ノ宮🛩️→ ⚡️神戸 🍀
名古屋から大垣まで7駅、燕で38分、乗り換えの普通が45分。現在は9駅、特別快速で31分、普通電車が38分。
国府津から名古屋までノンストップとは、さすが超特急。
そして、2024年現在の時刻表で超特急燕の9:00発に近い9:06発(休日8:54発)の普通熱海行きからスタートし、
在来線普通列車と新快速をひたすら乗り継ぐと大阪17:42着とわずか22分遅いだけで着いてしまいます。
電車ってすごい。
何だかんだ言っても東海道本線ですからね。よっぽど急ぎじゃなきゃ普通乗り継ぎでも思ったよりかは案外早く行けちゃうんです。しかも、3月の改正から、修業に近かった静岡地区(熱海~浜松)のロングシートがクロスシートにバージョンアップしたので疲れも少なくなりました
スピードアップのためにこの当時していたことは、スキルというより芸事ですね😊
国府津、大垣はおそらく機関車付け替えのための停車で、それを除けば、今ののぞみ並みの停車駅で驚きです。
なお、神崎駅は今の尼崎駅なのでしょうね。
新幹線並みの停車駅に驚きです。川崎駅ってなかったのですか?
川崎駅はありましたが京浜東北線が停まるだけでした。戦前は横須賀線すら停車しませんでした。
@@TSUYOS185 さん。そうだったのですね。今は政令指定都市なので意外でした。初歩的な質問になりますが、現在は新川崎・西大井経由の横須賀線もその頃は東海道を通っていたのですか?
@@taic9705 1980年のSM分離までは横須賀線も横浜~品川間は東海道線のルートを走っていて、川崎駅には横須賀線電車は停車していたはずです。ただ、その横須賀線も1960年から停車するようになったらしく(ウイキペディアによると)、その前は京浜東北線のみの停車だったそうです。かなり驚きの事実です。
ちなみに京浜東北線は1928年からあったので、この時刻表(1930年)時点では東海道線には川崎駅がなかった(ホームはあったけど)という状態だったのでしょう。
@@kataakeo7730 さん。ホームはあったけど停まらなかったのですね。
京浜東北のみ川崎停車に横須賀線が東海道と同じ線路、今だと考えられない事だらけですね
当時は横浜-大船間も東海道線と横須賀線が同じ線路を走っていました。
途中の保土ヶ谷と戸塚(東戸塚は未開業)は、横須賀線の電車のみ停車し、東海道線の列車は通過していました。
水運車を連結してまででも停車時間を減らしていたのに、結局停車時間を増やしてでも輸送力が必要な状況になるなんて。
いつもありがとうございます。
既に電化されていても東京駅からSLが牽引、さらには一刻一秒でも短縮するために並々ならぬ苦労をされていたのですね。
この他には1等の展望車を最後尾にするために終着駅周辺では編成単位での方向転換が行われていました。
東京駅では到着後に進行方向と反対側に機関車を連結、大崎と蛇窪で方向転換して品川の客車区に納めていました。
神戸駅終着後はどうしていたのか分かりませんが、、
どこかしら駅の改称や新設があるけど、浜松〜豊橋間は今と全く同じ駅数、駅名というのがちょっとびっくり。
大垣〜米原間も今と同じです🤗
垂井駅はあったのですね
実は大船~国府津間も今と全く同じなのです
今日は超特急燕ですね!所要時間短縮の為に並々ならぬ工夫がなされていたんですね!。でも静岡通過で、国府津・大垣停車と言うのが面白い処ですね。
国府津と大垣は、3:35にあります補機を連結するために停車していました。
当時は急勾配で補機を連結する必要があるために停車していた駅がほかにもありました。
@@hc-ir2dr ただ、国府津と大垣の停車は時刻表に掲載していたので、単なる運転停車ではなく、客扱いしていたのでしょうね。
@@kataakeo7730 様
はい、国府津と大垣も客扱いをする停車でした。
この列車の車両のドアは手動で、駅に停まると乗客がドアを開けて乗降できるため、客扱いをする停車になっていました。
手動ドアの列車では運転停車はありませんでした。
@@hc-ir2dr であれば、実際には補器連結のために停車していた駅であれば、時刻表に掲載されていなくても乗降できたということですか?
燕の東京駅発車時は駅長が出発指示を出していたそうです。
その名残で東海道新幹線でも9時丁度発のひかり号は東京駅長自ら出発指示を出していました。
今でも9時丁度発ののぞみ号はJR東海の東京駅長が出発指示を出しているのでしょうか?
駅名を見ていて、先代三島駅ってのがあったのを初めて知りました。
運賃が気になる、1等が高いのは想像つくが3等も相当だったのでは?
この当時は3等で8円6銭(うち特急料金2円)、2等車はその2倍、1等車は3等車の3倍でした。
米一升(1.5キロ)が32銭だったそうですので、その25倍。現在この重量のお米は大体700円くらい(変動はありますが)ということを考えると17500円というところでしょうか。
1等では5万円を超えます。JALのファーストクラス以上。
この時代は高級車両はお金を払ってもおいそれとは乗れない独特の雰囲気があったそうです。
@@TSUYOS185 戦前みたいな大昔でなくても、昭和40₋50年頃までの特急列車は文字通り「特別急行」で、仕事上の用事のある人、今で言う「セレブ」やお金の有る人が乗るものというイメージでした。父親の出張経費なんかも急行利用が基本で、遠方行きや急用以外は特急利用は認められなかったように記憶しています。
特急「燕(つばめ)」 東京 → 横浜 → 国府津 →名古屋 → 大垣 → 京都 ょ大阪 → 三ノ宮 → 神戸 、
今日の東京新大阪間の新幹線のぞみのご先祖様ですね😊
国府津(今なら代わりに小田原)、大垣に停まるのでひかり号の先祖かもしれませんね
補機連結がある国府津と大垣を除いたら、今の「のぞみ」とほぼ同じ停車駅になりますね。「燕」が完全に特別扱いされていたことがよく分かります。
走行中に乗務員の交代をしていたようですが、方法がかなりヤバいですね。犠牲者が出なかったならいいんですが、あまりにも危険過ぎますね。
かなり無理強いにしているようなダイヤですが定時到着はどのくらいできていたのでしょうか
当時はATSが整備されていなかったことから少しくらいの遅れならギリギリのスピードで、さらには普通や貨物列車を待たせてまで走っていたのでしょう。
政財界の名士や高級軍人を乗せている以上、鉄道省としても威信をかけていたものと思います。
大垣乗り換えで
美濃赤坂線の
市橋行が
レア
東海道本線の中間駅である静岡駅の、各時代の時刻表を見てみたいです。
1930年代から三ノ宮と神戸は主要特急列車の停車駅だったんだな。今の特急は三ノ宮が停車駅で神戸は一部が停車だが…
下りの国府津と大垣は30秒の停車で後補機を連結していましたから運転停車だと思います😳
御殿場と関ケ原通過中に走行しながら後補機を開放するという荒技を使っていましたね😱
あと横浜〜名古屋間がノンストップだったので、安倍川鉄橋を通過中に乗務員の交代もしていましたね😱
時速80~90キロで走っているところで手すりに掴まりながら運転室に向かうのはかなりの危険を伴う作業だったものと思います。まさにジヤッキーチェンあたりのアクション映画の世界。
今なら完全にアウトですね。
走行中の補機開放ですが、広島の瀬野八では長い間行われていました。
今は西条で停車して切り離しになりましたが。
@channelsada3849さま
近鉄の場合中川の短絡線の改良を行い、余裕の出来た時間で津駅に特急を停車させたことにより運行中の乗務員交代を止めました。ひのとりは津駅で乗務員の交代を行っています。
新幹線ののぞみ号は浜名湖のあたりで運転士と車掌が交代しますが、つばめ号の時代とは違い全線立体交差、保安設備の充実で今まで事故を起こしていないのが技術の進化の賜物であると思います。
@channelsada3849 正確には中川短絡線通過中ですね。
@channelsada3849
運輸省から指導が入りましたからね😰
上りは米原と沼津に停車だったのですかね?米原の方は片勾配だったら停車してないのかな?
米原は通過、沼津は停車でした。
上りの補機連結は沼津-御殿場のみで、関ヶ原では連結されていませんでした。
高速で走行中に機関士と助士交代、僅か30秒で後補機連結に走行したまで解放…数々の伝説を残しているが、戦前は相当な腕の立つ職人気質のような鉄道員がゴロゴロいたんでしょうね。これらの離れ業…現在なら国交省がOK出さないだろう。
30秒で連結発車なんて京急運転主任さんもびっくりだな。
@@takana4381 連結器ガチャンとやるだけで配管繋がないので
国府津と大垣は補機連結のための運転停車。なお、下りは昼飯時に差し掛かり特に三等客がメシにありつけず(食堂車はあったが洋食堂車で庶民には馴染みがなかった)いわゆる「飢餓状態」になってしまい、東京発車後車掌やボーイが特に三等客に弁当の注文を聞き、横浜で駅員に渡して電報で注文を連絡して、国府津の30秒停車の間に積み込み客に渡すという離れ技をやってました。静岡停車になったのは、当時静岡に住んでいた日本最後の元老西園寺公望公に政府高官や閣僚がお伺いに向かうのに適当な列車がない(実は一等車連結の富士があるが行きは時間が遅い帰りは早すぎる)のでなんとかしてくれと要請を受け、じゃあ静岡の停車と引き換えに水運車の連結を中止する(更に二等車三等車の増結)という結果になりました。
なお昭和5年運転開始時にじゃあ東京名古屋間もC53に引かせたらええんちゃうのってみんな思ってましたが、実は東京機関区にC53の配置がないのと御召列車にも使われるC51の信頼性から東名間C51名神間C53の牽引になりました。水運車はそのまま走らせたら混合列車ミキストになってしまうため「炭水車の一部」という扱いにしてナンバープレートつけて機関車にしていました。ただし機関車と炭水車のナンバーが必ずしも一致していたとは限らないそうです。
丹那トンネル開通後に機関車付け替え駅になった沼津…そこまでは「ぬまづくわず」…なんて駄洒落もあったらしい…
@@ヒストレインさま
沼津駅の弁当が相当売れたのがこの時代のようです。
今も沼津駅にその会社の売店はありますが、三島駅の新幹線ホームの方がメインになりました。
特急「燕」 東京 → 横浜 → 国府津 → 名古屋 → 大垣 → 京都 → 大阪 → 三ノ宮 → 神戸 😮
静岡県内をノンストップで運転するのに大垣に停車するのは興味があります。
補助機関車を付ける為です。
上りは沼津に停車していました。
大垣と同様に、補助機関車を連結するためです。
1930(S5)年11月14日、この列車に乗ろうとした濱口雄幸首相が、東京駅プラットホームで銃撃される…
東京駅の通路にそのレリーフがありますね。
最近ではトランプ大統領候補、そして我が国では安倍元首相の銃撃事件もありましたし、いつの時代も要人警護は大変なものと思います。
痛ましいことは繰り返してほしくないですね。
あの世から宮脇のじい様が降臨しそう。
一日駅長してもらったのについ飛び乗ってしまった内田百閒先生も
横浜〜名古屋間を御殿場回りでノンストップ運転は凄いですね。
大垣停車は関ケ原にかけて25‰の上り勾配があり、補機を連結する為の営業停車でしょうか。今なら、運転停車でしょうけど(昔は客車は手動で客用扉が開閉出来るから停車扱いしたと、何かの雑誌に書いてありました。)
西小坂井、三河大塚、共和、笠寺の駅名が無いです。
乗客がドアを開けられることから運転停車に出来ませんでしたね。この時代の下りの急行は山北に停車して補機を繋いでいました。
戦後ですが、長崎本線の肥前大浦に上りだけ停車する特急もありました。
急行や準急に至ってはダイヤ改正の度に交換駅の変更に伴う停車駅変更もあったほどでした。
上大井、相模金子、東山北、足柄もまだ無かったのですね。今の御殿場線が長距離輸送に全振りしていたことが見て取れます。
駿河駅は現在の駿河小山駅です。
三島駅は現在の三島駅ではなく、現在の下土狩駅です。
丹那トンネル開通時に現在の三島駅が開業しましたが、その直前に改称されました。
JR九州が鹿児島特急として「つばめ」を使用したいと、JR各社にその意向を問うたという、いわくつきの愛称。私は、つばめとあさかぜ、富士は廃止してはならないと思います
JR九州がかつての名門特急の意匠を受け継ぐからと各社に頼み込んでお願いしたもので、JR九州で商標登録されています。
九州新幹線においては今のみずほ号に相当するものをつばめとして欲しかったですね。(JR西日本にも関係しますが)
「いわくつき」
って、表現はおかしくないですか?
ネガティブな言葉ですよ。
永久欠番的な名称と言うべきでは?
@@user-52-mickey 適当な言葉が思いつかなかっただけです
@@user-52-mickey適当な言葉が思いつかなかっただけです
@@TSUYOS185商標登録されてるんですね。九州住まいながら知らなかった。
九州もつばめ号ゆかりの地
伝統愛称が受け継がれるのは嬉しいことです